無垢の予兆

言葉の出枯らし

恵まれた私の誠実

 

わたしは日本人だ。

日本に生まれてよかった、幸せだと思うこともあるし、

日本人の嫌なところを見たり聞いたりすると、辟易したりする。

 

SNSのネットニュースで「日本に旅行中の外国人が財布を落としたが、交番にちゃんと届けられていた。ほかの国ではそうはいかない。素晴らしい国だ!」と絶賛されたという記事があった。

 

スポーツ観戦後にゴミを拾う。災害時にもちゃんと列に並ぶ。相手を思いやり、謙虚で善良。それが我々。来日したハリウッドスターには必ずインタビュアーが問いかける。「日本のどこが好きですか?」と。

 

先日の日露会談ではその謙虚さゆえに完全に足元を見られていたが…

 

まあそれは置いといて、財布を落としても盗まれないというのは本当に日本人が善良な為か?これがふと脳裏に過り、なんとなく私は考え込んでしまった。ただ、生活水準が高いだけでは?お金はあったら嬉しいけど、罪を犯してまですることではない。

私は道に落ちている財布を拾ったら、迷わず交番に届ける。でも、もし貧困に喘ぐ環境だったらどうだろう。食べる物を買う金もなく明日死ぬかもしれない身だとしたら。私は果たして善良な判断ができるだろうか。正直自信が無い。

 

先日も大企業の社長がSNSで大金をバラまいたが、あれに応募した人達も「当たったら嬉しい、外れてもまあ生活はできてるし…」という感じではなかろうか。そこまで切羽詰まってはいない、暇つぶし的な空気があるように思った。

ちなみに私も応募してみたが、見事にDMは来なかった。どうやら当たった人達は相応の夢や貰うべき理由があったみたいで、そりゃそうだわなーとぼんやり思った。

 

自分が恵まれている事を時々忘れそうになる。

ただ偶然環境が良かっただけで、自分が親切で誠実で真っすぐな人間だと勘違いしそうになることがある。

 

そんなことをうだうだ考えて、地下鉄を降りて地上に出て横断歩道で信号待ちをしていると、アジア系の外国人の女の子に肩をたたかれた。

道を教えて欲しいのかな?と思い私は耳からイヤホンを外した。

 

東京にいるとたまに外国人に道やお店の場所を聞かれる。

そのたびに私はどぎまぎしてしまって上手く答えられず、申し訳ない気持ちになる。思えばもう何年も英語を勉強してないし話してない。道案内をする為だけの英会話ブックとか売ってないだろうか。

 

話は戻り、女の子から質問を聞くために耳を寄せると、彼女は何も言わずに手に持っているノートを見せてきた。

「私たちは恵まれない東南アジアに住んでいます。どうか寄付をお願いします」と書いてあった。その横にはローマ字で寄付をした人の名前と、寄付の金額が何列も記されていた。私は信号待ちで人がごった返す中ぎこちなく財布を取り出し、紙幣を彼女に渡し、エンピツで署名した。それまで硬い表情だったその子は少し微笑み、「アリガトウ」と片言でお礼を言った。私もたどたどしく「ユアウェルカム」と言って別れた。

 

私はびっくりしていた。先ほどずっと財布を盗まないのは生活に余裕があるからだとかなんとか考えていた矢先の出来事。

神様とはいわないけど何か大きな力に「おまえ、余裕があるんだろ?なら行動しろよ」と言われているみたいだと思った。

 

 

 

先日superorganismというバンドのライブに友人Aと行ってきた。

よくこのブログに登場するあのAである。

superorganismは日本人ボーカルorono率いる多国籍バンドで、キャッチーな曲や、ポップでサイケな演出が特徴の人気急上昇中のバンドだ。

ライブは一時間もしないうちに終わってしまったが最高だった。

印象的だったのはoronoのMCだ。「oronoちゃんって呼ばないでくれる?クソうざいから。友達じゃないんだからさ、oronoさんか野口か社長って呼べ」とか、「東京はマジでクソ」とかも他のライブで言っていたらしい。

oronoは東京出身で、若い頃この国を出た。

日本を嫌っているように思えるし、日本人に嫌気がさしていて呆れているように思えた。でもじゃあ何故日本でツアーをやるんだろう。歌詞やMVに日本の物を取り入れるんだろう。

「はい、ここの振り付け揃えてやってみて!日本人なんだから揃えるの得意でしょ?」といじるorono。私たちも笑いながら応じる。

 

でも他の国でのライブ(Youtubeで見る限り)より、生き生きとして毒を吐いていた気がした。

 

ライブ後にAとご飯に行った。私はカツカレー、Aはボロネーゼを頼んだ。どちらも辛くてひいひい言いながら食べた。

「私最近、心の中にイタリア人を住まわせてるんだよね」といきなり言い出し、私はカレーをむせそうになりながら「は?」とAを見た。

 

「失敗してへこんだり、気分が落ち込む時は心のイタリア人が『いいのよ!素敵よ』って言ってくれて、自己肯定感を高めてくれるんだよね。」

私は「はあ」と返事をした。Aの突拍子もない発言は昔からなのであまり驚かない。ていうか、女のイタリア人なのか。

 

「最近も前髪切るの失敗しちゃったけど、イタリア人が『いいのよ、素敵よ』って言ってくれた。おすすめだよ、心にイタリア人住まわせてみるの!」とおすすめされ、確かにそれはいいかもしれないと思った。

 

これから失敗して落ち込んだり、気分が上がらなかったり、日本を嫌になることがあるだろう。

そのたびに心に住むイタリア人が元気づけてくれる。

『いいのよ!あなたは素敵よ!』と。

 

 

 

 

徒然霜月

 

2018年も終わりにさしかかっている。

今年も色々あったような、なんにも無かったような。

2018年は、年明けの5分後にエグザイルのライジングサンを踊っていて、ポットに足をぶつけてお湯をこぼすという幸先の悪いスタートだった。

しかしそれが暗示するような嫌なことはあまり起きなかったと思う。

私の人生はいつもこうだ。荒れ狂う波もなければ不慮の落石も無い。しかしとびきりの幸運も無いし、頭がおかしくなるほどの熱情も無い。

私はそれがサイコーだと思っている。

 

恋愛に関するネタも一向に潤わないので、話題提供できなくて友人達には申し訳なく思っている。

ひとつあるとすれば、職場にナイスミドルがいるということくらいか。

その人は40代くらいで、シュッとして背が高く、ちょっとキツネ目でスーツが似合う。私が入社面接した時の面接官だった。

一目見て、私のタイプだと思った。仕事を始めた頃も書類などの件で少しお世話になった。

私がどんくさくて書類や筆記具を落としたりしても(私は何故かよく物を落とす)、ちゃんと待っていてくれたり、ある時は私の印鑑が朱肉で赤く汚れていたのを見て「ちょっと貸して」といって拭いてくれた。これは結構恥ずかしく、それが逆に興奮した、と友人に言ったら「変態か?」と冷たく言われた。

 

初めて会った時は冷たい人なのかと思っていたので、正直驚いた。その後も偶然帰り道で会ったりして度々一緒に駅まで帰った。彼は笑うとキツネ目がいっそう細くなった。

 

ある日、「今度美味しい店に連れてってあげるよ」と言われた。私が返事に迷っていると「変な意味じゃないよ?かといって誰にでも言ってるわけじゃないけど」と言われ、ますます何と言っていいか分からなくなった。

 

それからご飯に行くことも無く、私の勤務時間の関係で帰り道で会うことは無くなった。その人も他部署に移動になった。

 

つい先日、お偉いさん方が職場を見学に来た。一番後ろにあの人がいた。

「こんにちは」と私が挨拶すると、「こんにちは、久しぶりだね」と彼は言った。そして顔を近づけ「元気だった?」と聞いてきた。私は息が止まりそうになりながら直立不動で「はい」とだけ言った。

やっぱり格好いい人だなと思った。

 

あと最近あった事といえば……

…え?これで終わりかって? はい。この話はこれで終わりです。

 

 

最近は母と箱根旅行に行った。

うちは結構家族で旅行に行くのだが、母と二人では初めてだった。父と母は仲が良く、しょっちゅう二人で出かけている。なので驚くことに、母は一人で地元から出たことがほとんどない。箱根湯本で集合しようと言ったら「そんなのほとんど一人旅だ。不安でいやだ」と言われた。

 

結局小田原で待ち合わせすると母は大きな荷物を持って現れた。「備えあれば憂いなし!」と言っていた。それからはずーっと喋り続けていた。父と母は二人でいるとずっと喋り倒している。長年連れ添ってよくまだそんなに話題があるものだと驚き呆れてしまう。

その反動で私と弟が無口な人間になったのかもしれない。

 

父は旅行のプランを事細かく決めるタイプだ。(しかしいつも詰めが甘く、バスの停留所を間違えて置いてけぼりにされたりしている。) なので私の適当なプランニングに母は不安がっていた。

一日目は箱根神社に行き、御朱印をもらい、湖に浮かぶ鳥居で写真を撮った。母が撮るのが下手すぎて軽く喧嘩になった。

わかさぎ定食を食べながら母の愚痴を聞いた。

今回の旅の目的はこれだったりする。

マイペースな父と弟、これまたゴーイング・マイウェイなおばあちゃん、母の職場の偏屈な先生、と母を取り巻く人々は何かと問題児だ。

 ちょっと日常から離れ、少しでも気晴らしになってくれたらいい。

 

その後は星の王子さまミュージアムに行って、ススキで有名な高原に行った。そこの風景が筆舌に尽くしがたい程美しかった。

ちょうど夕日が沈む頃で、黄金の海のようなススキが夕日に照らされていた。空は真っ青で、飛行機が横切り、ひとすじの雲が続いていた。

 

 夜はお洒落なイタリアンで夕食をとった。ルッコラのサラダが苦手だったことを忘れて頼んでしまい、ヤギのように苦々しげにモシャモシャ食べた。

宿の温泉はとても良かった。貸し切り風呂からは紅葉が見えた。

 

二日目は近くの純喫茶でナポリタンとバタートーストとホットコーヒーを頼んだ。

赤いベルベットのような椅子が素敵だった。

「最高だね。我ながら最高なプランだったでしょ」とナポリタンを吸い込みながら意気揚々と私が言うと、「たしかにね。たまにはゆっくりのんびりな旅もいいね」と母も言ってくれた。

 この後、大涌谷箱根美術館強羅公園などに行ったのだが割愛。

 

母はおみやげを大量に買い、来た時よりもさらに大荷物で新幹線で帰っていった。お礼ということで私にもキャラメルのラスクをくれた。

 楽しんでもらえたようで良かった。

 

わかさぎ定食を食べている時に、私は宗教を信じない友達の話をした。以前ブログにも書いた、お墓に私はいない、という持論の子だ。

母はへぇ~とか、面白い子だね、とか言うのかと思ったら真剣な顔で「それ、最近よく考えるよ」と言ってきた。

そして「どうやらうちのお墓、もうすぐ人数制限が越えるらしいんだよ」と衝撃の発言をかましてきた。

考えたことがなかった。お墓に人数制限があるなんて。

でも確かにそうだ。スペースは限られている。でも骨はこれからどんどん増えていく。

「だから私が死んだら海とかに撒いてほしいなぁ。自然にかえして欲しい。旧姓でも今の苗字でも無く、自分自身が誰なのかとか関係なくさ」

と母はぽつりぽつり言った。

「一人の人間としてってこと?」と私が尋ねると、母は大きく頷いた。

 

「こんなこと、あんたにしか頼めないからね」と言って美味しそうにわかさぎのフライを頬張る母を見つめ、責任重大な任務を託されたな、と私は息を大きく吐いたのだった。

 


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10月の死神

 

十月は異称で神無月と呼ばれる。

全国の神様達が出雲大社に集まるので、神様がいない月。

 

私は十月が何故か一番メンタルがやられる。

暑かった夏から冬に向けてだんだん肌寒くなることが影響を及ぼしているのかもしれない。

季節の変わり目に感情のコントロールが難しくなる季節性感情障害(SAD)、通称季節性うつというものがあるようだが、症状を見てみると微妙に私には当てはまらない。

十月に発症して春まで続くらしいのだが、私の場合はかなり短期だ。

 

1日だけ何もかもが嫌になる日がある。誰の言葉も信じられず、今まで平気だったことが平気じゃなくなる。

この強烈な1日を乗り越えれば、元の平穏な日常に戻れる。

 

先ほど十月は神がいない月と書いたが、ひとりだけいる。

そいつは私の周りをぶんぶん蠅のように飛び回り、正常な思考を妨げる。

死神である。

 

死神を連想するといろいろな姿かたちがある。

黒いマントにドクロの顔で鎖鎌を持っている奴や、落語の「死神」に出てくるみすぼらしい老人姿の奴。

私の死神は映画の「バードマン」に出てくるような奴だ。

後ろにぴったりくっついて、気分を落ち込ませるようなことを囁き続ける。

 

私の死神はひょろっちくて、愚痴を吐いたり、友達と遊んだり、美味しいものを食べたりしていれば小さくなっていつの間にか消えている。

いつだったか、一人で黒部ダムに行ったことがある。

その為に地元に帰ると、母が怪訝な顔をして「あんた、まさか身投げするつもりじゃないでしょうね」と言ってきた。

私はただ、雄大な景色を見て癒されるつもりだった。

 

ダムは元々好きだ。見つけるたびに「ダムだーーー!!」と喜びのあまり叫ぶし、それを見た友達に呆れられる。

一人で行った黒部ダムは格別だった。周りは親子やカップルや友達同士と思われる客で溢れ、女一人で来ているのは私だけだった。

勢いよく放水されるダムを上からのぞき込み、その迫力に足がすくんだ。虹も出ていた。ここから落っこちたら木っ端みじんだな、と震えた。

これじゃまるで疑似身投げをしに来たみたいだな、と苦笑して山菜うどんを食べて帰った。死神はダムの水にのまれて見えなくなっていた。

 

 

十月になるともうひとつ思い出すことがある。

十月に死んだ中学の同級生のことである。

ショートカットで、女の子なのに一人称は「オレ」で、初めて見たとき私は本気で男の子だと思っていた。

最期に会ったのは亡くなる2、3か月前。同級会で集まった時だ。私たちは二十歳になっていた。皆居酒屋で酔っ払って、何故かキス合戦が始まった。私は笑って見ていた。あの子は女子にキスされて嫌がりながらも照れて笑っていた。

皆でカラオケに行って盛り上がった。私がラッドウィンプスを歌うと「オレもその歌チョー好き!」とあの子が目を輝かせて言うので私は得意になって歌った。 カラオケ屋にあったガチャガチャでチュッパチャップスを取って私にくれた。見事に終電を逃し、あの子の親戚が車で迎えに来てくれて、ぎゅうぎゅう詰めになって帰った。

開けた窓から夏の夜風が吹き込み、気持ちの良い夜だった。ネオンがキラキラ光ってあの子の横顔を照らしていた。私たちは他愛もないことで笑っていた。

 

 横浜の赤レンガ倉庫でバイトの面接を終え、バスの停留所で一息ついているときにその知らせは入った。嫌な冗談だと思った。だってつい最近会ったばかりだ。

でも彼女の家に行って顔を見た時、「あぁ、ほんとに死んでしまったんだな」と思った。彼女はまるで眠っているみたいで、呼びかけたら目を開けて「おう!」と笑いかけてくれそうだった。

お葬式にはたくさんの同級生がいた。笑いながら話している人がいたり、足が立たなくなるくらい泣いてる人もいた。

あまり話したことのない他クラスだった人たちに声をかけられ、どこに住んでるのかとか近況を聞かれた。

 

あの子のお姉さんの姿も見つけた。何故か以前お姉さんと二人でバレーのパスをしたことを思い出した。私が経験者だと知ってじゃあやろうよとなったんだと思う。あの子は横で困りながらも笑って「ごめんな、うちの姉ちゃんが」と言っていた。

 

私はあの子と友達だったのだろうか。

最期に会った日に何か気付けていれば、とかそんな驕り高ぶった考えはない。彼女の悩みも知らないし、打ち明けてもらえるほど仲が良かったとはいえない。

ただ、ぶっきらぼうな態度とは裏腹にとても傷つきやすい繊細な子であることは知っていた。教室で机につっぷして静かに泣いている姿を、昔何度か見かけた。皆いつものことだと知らないふりをしていた。私も我関せずだった。

 

ただ一度だけ放っておけなかった。あの子はベランダでまた泣いていた。冬服に衣替えしていたけど教室の窓は開いていたような記憶があるので、まさかあれも十月の頃だったのだろうか。

どうやら男子に嫌なことを言われたらしい、と誰かが囁いていた。

 

私は泣いている彼女の背中をさすり、「気にしないほうがいいよ、あんな奴の言うことは」と声をかけた。無言のまま泣く彼女の背中をさすりながら二人でしばらくベランダに佇んでいた。

なんで私はあの時声をかけたのだろうか。

なんで友達ヅラしたんだろうか。

私にもあの時一瞬見えたのだろうか。あの子の周りを飛び回る死神を。

 

弟を階段から突き落とした話

 

何に対して爆発したのか

何歳の頃かはもう覚えていない。

保育園か小学低学年くらいの頃の出来事だと思う。

覚えているのは、スローモーションで階段を転がり落ちていく弟の姿。

押したのは姉である私だということ。

 

あの瞬間、私には悪魔が乗り移っていたと思う。

弟が無事でよかったと、大人になった今でも冷汗が出る。

私はいったい何が原因であのような凶行に走ったのか

それがまったく思い出せない。

 

 

子どもは無垢で残酷だ。

同級生の男子は平気な顔で、草刈の鎌で蛙を殺していたし、

虫を大量に踏みつぶしていた。

人間は生まれながらに嗜虐心というものがあって、子どもはそれを隠そうとしない。

 

女の子にもそれはある。

私にもあったんだと思う。弟がくしゃくしゃの顔で泣くと、可愛い、と思った。

 

今でこそ一緒にライブに行ったり、LINEを頻繁に交換したりと仲の良い姉弟であり、弟を自分の分身のように感じているが、昔は違った。

私と弟は何もかもが違いすぎた。

まずは体格。 私は身長がぐんぐん伸びた。やせっぽちではあるが、クラスメイトより頭ひとつ分出ていた。それが嫌だった。

弟は小さかった。いつも背の順で前から2番目3番目のところにいた。組体操では決まって一番上だ。

 

そして性格。私は極度の人見知り、恥ずかしがり屋、内弁慶だった。親戚が来るとモジモジして、ずっと黙ってニコニコしていた。

弟は本当にうちの血筋の子か?と疑問に思われるくらい元気っ子で、やかましかった。親戚の家の水槽に手をつっこみ、手づかみで金魚を捕まえようとする破天荒さ。「お菓子をやるから黙っていろ」と叔父さんに言われたのは語り草になっている。

 

このように、私と弟は正反対で、相性が悪かった。

私はお調子者の弟が可愛らしく思いつつも憎らしかった。

皆が弟の方だけを可愛がっているように感じた。

 

しかし、何故だか弟の方は私のことが大好きだった。

いつも私の後をついてまわったし、私のすることをマネしようとした。「もう遊んであげない」と言うとこの世の終わりかのように泣き叫んでいた。

 

忘れられない出来事が二つある。

私が母に怒られて外に裸足のまま締め出された時、幼い弟が泣きながら私の胸に飛び込んできたことがある。

「なんでこいつが泣いているんだ?」と思っていると、母が「アンタが外に出されて可哀そうだってさ」と言ってあきれたように微笑んだ。 私は弟が何故そこまで私のことを思うのか不思議で仕方なかったけれど、涙が溢れて止まらなかった。

私と弟は抱き合いながらおいおい泣いた。

 

あと、私が二階の部屋の小窓から興味本位で屋根の瓦に登ってみようと足をかけた時、後ろで泣き叫ぶ声がして、驚いて振り向くと弟が泣きながら怒っていた。「あぶないから登っちゃだめ!!」と地団駄を踏んでいる。

「大丈夫だよ、ちょっとくらい」と言っても泣き叫ぶので、苦笑しながら「わかったよ」と諦めたのを覚えている。

 

私は保育園のスモック姿の弟が大好きだった。

ふわふわで柔らかくていい匂いがして、いつもぎゅっと抱きしめていた。

くるくるの栗色の天然パーマも、つり目も、小さい手も大好きだった。

 

こんなに愛しい記憶も残っているのに、四六時中ふたりでいると優しい出来事ばかりではいられない。

昔のホームビデオが今でもDVDで残っているのだが、ひな祭りの日に私が不貞腐れて泣いていて、母は怒っていて、おばあちゃんが慰めている。

父は「泣いてる!泣いてるぞ!」とはやし立てながらビデオを回している(最低)。弟は父のマネをしながら「お姉つぁん(ちゃん)、ないてるないてる!」とおどけている。

お前、そういうことしてるから私にいじめられるんだぞ。

 

しかもどうやら私が泣いている理由が、ひな祭りは私のお祝いなのに、弟の独壇場になってしまったことが関係しているらしいのだ。

画面が切り替わり、弟がおちゃらけて、たどたどしくひな祭りの歌を熱唱している。皆が、上手だねぇ、と拍手している。

苦々しげに涙目で弟を睨む幼き日の私。

 



理由は分からない。何かが引き金となった。

気付くと私は弟を階段から突き落としていた。

 

私は「なんて恐ろしいことをしてしまったんだろう」と、ずっと後悔していた。生きていたのは奇跡だ。幼い頃の事とはいえ、もしもあのまま弟が死んでしまっていたら私は今こうして呑気に暮らしていられない。

 

今では弟の背も伸び、私を抜かしてしまった。

性格も落ち着き、ちょっとは天真爛漫だった昔を思い出せよ、と残念に思うくらい穏やかになった。

あれだけあべこべだった姉弟は似たもの同士になった。

話も合うし、趣味も笑いのつぼまでそっくりになった。

 

成人になってから「お前は忘れてるだろうけど、家の階段から突き落としたことがあるんだよね。スローモーションで落ちていってさ…」と言うと弟は「俺も覚えてるよ。俺もスローモーションで落ちてるなあと思ってたよ」と笑いながら言った。「ほんとに姉ちゃんはひどいよね」

 

 

この出来事を他人に話すと、当たり前だがドン引きされる。私自身だって過去の自分にドン引いている。

母は「はぁ!?そんなことしたの!?覚えてない!」と叫んでいたが、落ちて泣いてる弟を焦りながら抱える母の姿を覚えているから、まさか私が犯人だと思わなかったのだろう。

父は「ひでぇーーー!(笑)」と言っていた。

 

「キョウダイ」というものは他人には理解しがたい、唯一無二の存在だ。

大切であり、憎らしくもある。

かつての私の凶行を笑って赦してくれる弟に感謝しかないし、これからも仲良くして頂きたい所存である。

 

自堕落な夏

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日本列島を熱するだけ熱した後、突然飽きてしまったかのように夏はどこかに去ってしまった。

まるでスイッチを切ったみたいに、目が覚めたら秋になっていた。

夜空は高く澄みきっている。

 

今年の夏はいかんせん暑すぎた。

眠っている最中も軽い脱水症状でカラカラになって飛び起きることも何度かあった。

 

ラジオで、「今年の夏は人だとしたらかなりスベっている。温度調節をケツ搔きながら足でやってるような奴だ」と言っていて納得してしまった。

ちゃんとしろ、と言いたくなるくらい雑な温度だった。

平成最後の夏だからと気合をいれつつ調子に乗ってしまったのだろうか。

 

 

今年もお盆は実家に帰った。

幼馴染と、同級生の旦那と、2歳の娘ちゃんと軽井沢におでかけした。

母に「あんた邪魔じゃないの」と苦言を呈されたが、もともと幼馴染と娘ちゃんと私の三人で行こうとしていたところに旦那が俺も行くと言ってきたのだ。そこんとこを忘れないでいただきたい。

 

昔、この二人がまだ付き合ってもいない頃、三人で鎌倉に行ったことがある。

海岸沿いの店でハンバーガーを食べ、小町通を散策し、歩きにくいからとビーチサンダルを買って、足を並べて写真を撮ったことだけは漠然と覚えている。

まさかこの二人が結婚するなんて、誰も予想していなかっただろう。

 

娘ちゃんに「好きな男の子はいるの?」と聞くと、「いる」と頷いたので、聞いた私も幼馴染たちも動揺してしまった。

「誰?誰?!」と問い詰めると

「じいじ…」とのこと。

「なんだ、じいじか……じいじって男の子か?まあいいか…」

と大人たちはなんとなく安心して脱力してしまい、おかしかった。

 

私と幼馴染は6歳で出会った。

娘ちゃんはこれからどんな子と友達になって、どんな子を好きになるんだろう。楽しみだ。

 

帰りに、しりとりをしようということになった。

「くだもののしりとりにしよう」と娘ちゃんが言うので、「じゃあ、キウイ」と私が言うと娘ちゃんは「い?い、い……岩キュウリ」という得体の知れない野菜をぶっこんできたので一同爆笑してしまった。

「あぁ~、あの有名な岩キュウリね」とのっておいた。

子どものイマジネーションはすごい。

 

 

 

家では扇風機に当たりながら桃と梨と葡萄と西瓜とミカンを食べ、ぼーっと甲子園を見ていた。

この時間が永遠に続けばいいのに、と自堕落な脳みそで考えていた。

 

あと、母と映画を観にいった。

未来のミライ」という映画だ。 上映時間に間に合わないとすこぶる焦って、裏道をぶっ飛ばしながら運転する母がどうにも面白くて、私はずっと笑っていた。

父は「評価良くないぞ」と言っていたが、映画は結構面白かった。

私の父はちびまる子ちゃんのお父さんに似ているというか、ひねくれてて性格が良くはないので、「面白くなかった」というと嬉々として「ほら見ろ!だから言っただろう」と大喜びするような男なので、「結構面白かったよ」と言ったらつまらなそうな顔をすると思う。

私は映画を観た後すぐ東京に戻ってしまったので、その顔は見れなかった。

 

 

8月13日は毎年叔父夫婦と従妹や従兄が家に来て、皆でお墓にいって迎え盆をする。「おぼん」と書かれた古い提灯に火を灯し、先祖の霊を導くのだが、提灯が柄からぼとりと取れて落ちるので、そのたびに弟は文句を言っていた。

おばあちゃんは、物忘れがさらに激しくなっていた。

お墓へ行った後は親戚が家に来てご飯を食べていくのが昔からの行事なのに、そのことすら忘れてしまっていた。

 

お墓への道中、おばあちゃんは私に言った。

「おじいちゃんは死ぬ間際、あたしの手をにぎって最後に眼を開いた。ありがとうと言って死んでいった」

毎度毎度聞かされるエピソードなのだが、家族が祖父のもとに駆け付けたとき、祖父はもう息をしていなかった。

義務的に医師が心臓マッサージをしていて、家族が来たことを確認したのち、死亡を伝えたらしい。

 

でもおばあちゃんは自分が見たことをずっと信じ続けている。

私たちもそれでいいんじゃないかと思っている。

否定も肯定もせず、「そっかぁ」と相槌をうつ。

 

皆で食卓を囲んで、目一杯ご飯とお酒を楽しんだあと、昔の旅行の写真を皆で見た。

おばあちゃんは幼き日の弟の姿を見つけるたび、「可愛い」を連呼した。

従姉が「ともちゃんも可愛いじゃん!」と言ってくれるのだが、おばあちゃんは完璧にスルーするので、私は「お~~~い!!!」と芸人のようなノリで突っ込まざるを得なくなる。

おばあちゃんの男尊女卑は昔からなので、もう慣れてしまって正直あまり傷つかない。

 

しまいには従姉が「弟くん、そんなに言うほど可愛くないよ…?」と何故かアンチになりかけた所で宴は終了となった。

 

おばあちゃんは本当に面白い。

ずっと一緒にいると辟易するけど、おばあちゃんがいない世界なんてつまらない。

長生きして欲しい。

 

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祈りと救済

 

あれはたしか祖父の法事でのことだろうか。

私はまだ小学生だった。

その時のお坊さんの説法をいまだにしっかり覚えている。二つの話をしてくださった。

 

ある日お坊さんは読経をしに、とあるお宅を訪ねた。赤ちゃんのいる家で、母親が忙しなくご飯を作っていた。お坊さんが仏壇に向かって経を読んでいると、しゃもじが床に落ちていることに気が付いた。しゃもじは赤ちゃんのお漏らししたおしっこに浸っていた。母親は気付かずにそのしゃもじを拾い、ご飯をよそいはじめた。そして「良かったらご飯を食べて行ってくださいな」と言った。お坊さんはおしっこに浸かったしゃもじを思い出し、丁重に断り家をあとにした。そのすぐ後に母親と再会し、おにぎりを貰った。「美味しいおにぎりだ」と褒め、お礼を言うと昨日彼が食べなかった米で握ったものだと言われ愕然としたという。

 

食べ物を無下にしてはいけない。廻り回って自分のところに必ず返ってくる、という話で、私も親戚も笑って聞いていた。

 

二つ目は命の話。

日本では人は死ぬと火葬される。故人は煙となり空へ昇り、雲に吸収され、雨になって地に降る。そして木や草花の養分となり、また次の命を生かす。命も廻り回って返ってくる。

 

 

昔は、仏様や神様を信じていた。仏壇を前にすると緊張した。何か悪いことを考えたりしたら天から見透かされて、罰を与えられると信じていた。

 

大人になるにつれてそういった恐れ敬う気持ちが薄れていったが、先祖を大切に思う気持ちはいまだにある。実家に帰ると必ず仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏を十回唱え「おじいちゃん、ただいま」と挨拶するし、東京に帰るときは「帰りますね。事故がありませんように」と手を合わせる。

 

これは良い子ぶっているわけではなくて、子供の頃からの“習慣”だ。

ご飯と水は毎日供え、お盆には提灯を掲げてみんなで迎え盆、送り盆をする。 別にうちは熱心な仏教徒ではないが、当たり前の習慣として続けている。

 

山中湖に一緒に行った友人Aとなぜか宗教の話になって、その話をするとAは驚いていた。

Aの家はお父さんが特に信仰心が薄いらしく、Aも同じく「墓の前で祈る」概念が無いらしい。「墓」には骨があるだけで、魂はもうそこにはない。祈っても意味が無いということらしい。

まさに「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」状態である。 

Aは「私が死んでもお墓に来ないでほしいんだよね。だってそこに私はいないし。うちのお父さんも、遺骨はどーにでもしろ、海にでも捨てろって言ってるし」と言っていた。ほんとに彼女は異文化だ。

 

このように、ひとえに仏教と言っても各家庭で様々な習慣や考え方があるのだ。

「まあ、祈るっていうのは死んだ人の為というより、残された人たちの為にあるのかもしれないよね。心の拠り所として」と私は言った。

「たしかにそうかもね。でももし自分が死んで、皆に祈られても、どうしようもないから好きにしてくれって思う。」とAが言うので、私は笑って同感した。

 

 この話をした数日後にオウムの教祖や幹部たちの死刑が執行された。

地下鉄サリン事件の当時、私はまだ幼くて、よく事態を把握していなかった。おかしな紫色の服を着たおじさんが、妙に耳に残る変な歌をうたっている、という認識だ。

新興宗教にハマる心理を私はまったく理解できない。

と、そう思っていた。でも最近なんとなく分かってきた気がする。

SNSの無い時代、「こんなに辛い思いをしているのは自分だけ」と思い込んで行き詰ってしまった人々にとって宗教は救済だった。狭いコミュニティの中で居場所を見出し、ここから抜け出したら終わりだと思い込む。

教祖の言葉だけが真実だと思い込む。

 

救いを求めたり、盲目的になることは誰しもある。学生の頃、心酔していたバンドの歌詞やボーカルの言葉のすべてが私の救済だった。

バンドやアイドルのファン、スポーツチームのサポーター、宗教の信者

誰しも深みにはまり得る。

 

だから私は必ずしも信者は悪だとは思えない。

騙されるほうが悪いとは思えない。

私にしかその歌が響かないように、彼らにしか分からない共鳴がある。

 

 私が昔心酔していたバンドの曲は、今でも変わらず聴いている。

あの頃の燃え盛るような熱量はさすがに減ったけれど。

歌詞や言葉がたとえ綺麗ごとだとしても、心が折れそうな時に結局救われるのは綺麗ごとなのだ。

 

 

彼女は異文化

 

 じめじめとした梅雨が続いていた。

 雨は嫌いだが、お気に入りの傘がさせるのはちょっと嬉しい。

透明のビニールの生地に、青い水玉がところせましと並んでいる。 カルピスみたいで可愛い。

 

 カルピスの傘をさしながら、夜の雨の中を歩いていると、ウォークマンからSuchmosの「Fallin' 」が流れてきて、うわぁ、とため息がでた。この曲は夜の雨に相応しい。「Fallin'」が終わると、次はペトロールズの「雨」が耳朶に触れた。

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 このウォークマンは買ってから大分年季が入っている。もしかして、九十九神がとりついているのではないだろうか。

 ナイス選曲だ、グッジョブ、DJ.九十九神

 

 そんな風に梅雨を楽しんでいたが、友達と山中湖で遊ぶ約束がダメになったのは悲しかった。

 先日リベンジということで山中湖に行ってきた。梅雨はどこかに吹き飛ばされ、見事な晴天の日だった。私たちは歓喜し、ドライブの車中でパピコを半分にして食べ、ハンモックカフェでアイスコーヒーを飲みながらハンモックに揺られ、木漏れ日の中くつろいだ。

 せっかくだからとサイクリングで湖を一周し、一息ついていると細い川の向こうから何かが優雅に泳いでくるのが見えた。

 白鳥の親子だった。小さな子どもが3羽、お母さん鳥の後ろにくっついている。「え~~~、こんなことってある~~?」と、非現実的な光景にぼーっとして見ていると、白鳥たちは私たちの目の前で餌をとり始めた。 母鳥が子どもに教えているようだった。

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 とても良い1日を過ごすことができた。何より、久しぶりに友達に会うことができたのが大きかった。友人は「A」という名前にしておこう。 

 Aは圧倒的に変わっていて、かつ自由人だった。 時間にルーズだし、定職についてないし、夏になると地方にバイトに出て(旅館の仲居や、ラベンダー畑で売り子、湖の傍のレストランでウエイターなど)、お金が貯まるとふらっと外国に旅に出てしまう。

 この間は年賀状の代わりにトルコから絵葉書が届き、安否を知った。

 

 Aは学生時代にできた友人だ。いつも笑顔で、人一倍明るくて、初対面なのにいきなりリトルマーメイドの「Part of your world」を歌いだし、一同を困惑させた。後で聞いたら、彼女はあの映画を最後まで観たことがないという。 このように、比較的静かな私とAは正反対といえる。

 

 本当にAと私は正反対の性格をしている。彼女は予定に縛られるのが嫌いだ。一方、私はできるだけ決めておきたい派だ(決めておいた方が楽)。 観たい映画や行きたい場所が異なると、Aは「じゃ、やめよっか?」とか「別行動する?」と言ってくる。ふつうはお互い譲ったり、合わせたりするところだが、一切ない。

 Aはわたしにとって異文化だった。比較的考え方が似ていた地元の友人とは違う。戸惑うこともあるけれど、私との違いが何故か心地よかったし、面白かった。

 

 Aは自分の考えを人に押し付けない子だ。

 「あなたはそうだろうけど、私はこうなんだよね。まあ違っててもいいじゃん。」とあっけらかんと言う。

 共鳴しあう部分もたくさんあるのが不思議だ。

 好きな音楽や漫画が驚くほど似ている。私が最近はまっている音楽をAもはまって聴いていたり、熟読している漫画が一緒だったりする。

 

 大きい犬が好きなところ(ゴールデンカムイの影響でオオカミにはまっていて、動物園に行こうと画策している)、ラベンダー色が好きなところ、赤ちゃんが苦手なところ(というか接し方がわからない、抱っこすると傷つけてしまいそうで怖い)

 これらが今回会って確認した私とAの共通点。

 探せばまだまだたくさんありそうだ。

 

 そういえば宗教の話もちょっとした。

 これは次の時に書くことにする。