チェリーコーラとマシュマロアイス
約1週間のポートランドでのホームステイ。
私は早くも一日目で出鼻を挫かれることとなった(前回の記事参照)。
朝ご飯はホストファザーが作ってくれた。
一口食べて思わず顔をしかめた。何だこれは。鳥の餌か?
恐らくオートミールというやつなのだろう。
牛乳も日本産のものよりかなり味が薄く感じた。牛乳味の水という感じだ。
私の般若の様な顔を見て、ファザーは新しくワッフルを焼いてくれた。こちらはとても美味しかった。彼の優しさが身に染みた。
続いて私の昼食も作っておいてくれた。サンドウィッチと、スナックと、果物。これぞアメリカの昼食という感じで感動した。
昼間は私達生徒には授業があるのだ(ほとんど授業らしいことはしなかったけれど)。コーディネーターの先生がペンションを貸し切っていて(先生の別荘だったかも?)、そこでお金の種類を学んだり、英作文を書いたりした。
ペンションは結構広く、大きなソファが4つあったり、小さなジャグジー付きのプールがあったりした。
近くにもっと広い屋外プールがあり、私達はそこで泳いだ。
貸し切りで誰も注意する人がいないので、バク宙や前宙の技で水に飛び込んできゃーきゃー言っていた。
疲れて寝た後はウェルカムパーティー。ホストファミリー達が料理やケーキを持ち寄って来てくれた。
アメリカの子供たちが水風船で遊び始めたので、一緒に遊んだ。割れてびしょ濡れになったけれど、日本ではやったことが無い遊びで楽しかった。
友達や先生に会えたことで少し気持ちに余裕ができた。
私は家に帰ると、ホストシスターのホリーに勇気を出して英語で「バスルーム使っていい?」と聞いた。これだけでも勇気がいることだったのだ。今考えると笑える。もしかしたらすごい丁寧語で言っていたかもしれない。「小生、お風呂に入ってもよろしいでしょうか?」みたいに。
ホリーは笑うでもなく元気に「Sure!」と言ってくれた。
それにしてもここの家族はバスルームを使っている気配があまり感じられない。毎日シャワーを使っている私の方が変なのではないかという気になってくる。
同級生男子の家のホストブラザーで、コーディネーターの女性の息子のロン(私達が勝手にそう呼んでいた。ロン・ウィーズリーに似ていたから)は、毎日同じTシャツを着ていた。
気にしないお国柄なのかもしれない。
一日目は辛かったが、それ以降は割と平穏に過ごせた。
家でBBQをしたり、ポップコーンを作って家族皆で映画を観たりした。私はウォレスとグルミットを頼んだ。英語が無くても面白いから。マザーは「久々に観たけど、結構面白いわね」と言っていた。
シスターとマザーと一緒にボーリングにも行った。大きなチョコミントアイスも食べた。彼女達も私に気を使ってくれているんだと分かり、感謝した。
車の中でマイケル・ジャクソンが流れると、マザーは大声で歌い出した。「いつもこうなのよ!」とホリーは呆れ顔で私に「クレイジー」と頭の上で指をくるくるさせた。
次に流れた曲がとても気になり、「これは誰?」と聞くと「JOJOだよ」と教えてくれた。
ホリーは他にもCDを貸してくれた。ブリトニー・スピアーズや、ジェニファー・ロペス等の女性シンガーが多かった。
私がBUMP OF CHICKENのCDを流すと、今度はホリーが「これは誰?」と聞いてきた。
「BUMP OF CHICKEN」と言うと、ホリーはゲラゲラ笑いだした。よく考えれば、バンド名を直訳すると「鳥肌」だ。
ホリーがアイスクリームを持ってきてくれたので食べた。チョコにマシュマロが入っていた。マシュマロ入りアイスはその時初めて食べたので衝撃だった。あとチェリーコーラというさくらんぼ味のコーラ。あれにも感動した。ちょっとドクターペッパーみたいな味なのだが、かなり美味しい。日本に帰ってからも「チェリーコーラはまじでウマい」を連呼したらそれだけで笑われるようになった。
アメリカ人は日本の寿司に感動し、日本人の私はチェリーコーラに感銘を受ける。Win-Winの関係である。
向こうの家族はとても放任主義だ。
他所の国から来ようが、特別扱いしたり、お客様扱いしたりしない。
何か手伝って欲しい時は遠慮なく言ってくるし(洗濯物畳みや皿洗いなど)、その他はご自由にという感じだ。本当の家族に接するみたいだ。
私も遠慮なくベッドでだらだらしたりする。
地元の家には一度も電話を掛けなかった。国際電話は高いし、何より母の声を聞いたらまた挫けてしまうかもしれないと思った。この件には母から後で散々嫌味を言われた。
ベッドで昼寝をしていた私をホリーが起こしてきた。
会わせたい人達がいるという。寝ぼけたままリビングに行くと、たくさんの若者達が集まっていてギョッとした。
男女7人くらいで、全部ホリーの友達だそうだ。
「え…そういうことは事前に言ってよ…」と思ったが、もしかしたら聞き逃していたのかもしれない。
ていうか、これは何のパーティーなのだ?
とりあえず庭に出て、イスに座ってお喋りを聞いていた。
坊主頭の青年が何故か私をいたく気に入ってくれ、様々な質問をぶつけてきた。こちとらリスニングも英会話もままならないんだぞ。しかも寝起きだぞ。
「How old are you?!」という質問にも咄嗟に言葉が出ず、え、あ、…とカオナシ状態になってしまい、赤面した。
「フ、フォーティーン…」と答えると「Oh!So Cute!!」と坊主頭はベイビーちゃんに話しかけるように言ってきた。たしかに語学力はベイビーちゃんだが。
するとどこからか浜崎あゆみの曲が流れてきた。
耳を疑った。 次に宇多田ヒカルの曲が流れてきた。
「僕らは日本の歌が大好きなのさ!!J-POP最高!」と坊主頭が嬉しそうに言う。
リビングに移動すると、テレビでセーラームーンが流れていた。
目を疑った。
横にいたイケメンが、魅惑的な笑みを浮かべながら私にカプセルガチャをくれた。開けると犬夜叉のフィギュアが入っていた。
テレビの前で坊主頭が「ムーンクリスタルパワー!メーイク!アーップ!」とクルクル廻ってこちらをチラチラ見ている。私を笑かそうとしてくれているのだ。
私は眠気も覚め、だんだんとこの状況が可笑しくなってきて、ゲラゲラ笑った。
坊主がセーラームーンの舞を踊り、私が、皆が笑う。
外国人の中で、いや、私だけが外国人で、人見知りの私がこの場で笑えているということがとても大きな一歩だったように思う。
つづく
異国の星
私の生まれた町はとても小さな町だ。
両隣を大きな市に挟まれ、いつ吸収されてもおかしくない。
工業の町として知られており、他にはネズミの形をした大根や、薔薇などがちょっと有名で、そのおかげかは分からないがなんとか合併することなく今日まできている。
私が14歳の頃まで、姉妹都市であるアメリカ、オレゴン州のポートランドでのホームステイ制度があった。希望者は簡単な試験を受け、受かった者は1週間ほどではあるがポートランドに行ける。
少し補助金も出た。
私は友達の誘いでなんとなく志願してみた。
その頃私は思春期の真っ只中で、「自分を変えるキャンペーン」を勝手に自分の中で行っていた。
部活を頑張ってみたり、好きな人に思いを伝えたり、不器用さを直す為に浴衣を縫って作ってみたり。
漠然とした将来への不安がいつも頭の隅に付きまとい、とりあえず今のままでは駄目だと思っていた。
人付き合いも下手だし、得意なこともない。
自分の首を絞めている相手は誰でもない自分だった。
自分の性格に息が詰まりそうだった。
事態が劇的に変わるとは思わなかったが、何か突破口が欲しかったのだと思う。
私は海外に行ったことが無かった。ただでさえ人見知りが激しいのに、見ず知らずの家庭でお世話になるなど、しかも相手は異国の人達である。
今考えると、当時の私は随分思い切ったなァと思う。
母も驚いていた。でもすぐ嬉しそうな顔をして「すごいじゃん、行ってきなよ!」と送り出してくれた。お金を出させることに申し訳ない気持ちがずっとあったので少し安堵した。
不安で気もそぞろな出発当日、祖母に電話した。「私も見送りに行く」というので「いいよ、来なくても」と何気なく言うと、祖母は突然電話口で泣き出した。びっくりして言葉を失った。今まで泣いているところを見たことがなかったから。
それだけ私のことが心配だったのだと思う。慌てて謝ったが、心残りは消えず、後悔を連れ立って日本を離れることになった。
ホームステイする生徒は同学年の10名で、引率の先生が一人ついた。
英語担当の女性の先生で、中学で数少ない好きな先生だった。
先生はビデオカメラで私たちの様子を撮ってくれていた。
そのDVDは今でも私の宝物だ。
初めて飛行機に乗り、友達とわいわい話しているうちにだんだん楽しみになってきた。
空港に到着すると各ホストファミリーが待ち構えていた。手には名前の書かれたボードを持っている。
ここで友達や先生ともしばしお別れだ。私は必死で自分の名前を探した。
事前の情報では私がお世話になる家族は4人家族で、父、母、息子(兄)、娘(妹)の構成だった。妹の方は私より一つ年齢が上とのことだった。
私の名前のボードを持った二人は父と娘だった。歓迎の言葉やハグがあった気がするが忘れてしまった。
とても明るい人たちで安心したことは覚えている。
時差ボケか気の緩みか、車の中で死んだように眠ってしまった。
ふと目が覚めて隣の女の子(名前はホリーといった)を見た。
ホリーは想像していた女の子とはかなり異なっていたというか、正直言って15歳には見えない風格だった。巨体で、よく笑い、私の周りにはいないタイプだった。
窓の外を見ると車が並走していた。
後部座席の長髪の男がこちらを見てめちゃくちゃ変な顔をしている。
薬でもキメているのか、アジアの女の子を見てからかっているのか。私は後者だと思い、目を逸らした。
ホリーも父も気付いていないのか何も言わなかった。
途中で仕事終わりのホストマザーと合流した。彼女も明るい人だった。言葉はよく分からないけど「YES」と「OK」でなんとか乗り切った。
このホームステイで分かったのは、共通言語は「笑顔」であること。
笑顔でいればなんとなくごまかせるし、自然に事は運ぶ。
と、思いたかったがそう甘くはなかった。
「この子、さっきからOKばかりで意思疎通できないわ」
と思ったのだろうか。マザーが私の電子辞書に単語を打った。
その単語は脈絡が無い単語で、それだけでは彼女が言わんとしていることが分からなかった。
「???」状態の私をみたマザーは諦めたのか、「OK」と言って微笑んだ。
私はそのOKに深く傷ついた。自分の語学力の無さで相手を落胆させたのだ。恥ずかしかった。能天気な私はほとんど英語の勉強をしてこなかった。
ここに来るまで、なんとなくホストファミリーは少し日本語が話せるのではないかと思っていた。そして英語を教えてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
例えば日本でアメリカ人をホームステイで迎えるのであれば、英語は少しでも勉強するはずだし、英語で接待するはずだ。日本語も教えようとするだろう。
私はお客様気分だったのだ。
しかし現実は違った。たった1年間の英語学習の上澄みだけ掬ったところで何も身にはならないのだ。
渡米する前に耳に挟んだ情報を今になって思い出した。
ホームステイを受け入れる家庭にはお金が入ることである。
なので過去には行った先がかなり貧しい家で、ほとんど満足なご飯が出なかったという体験談もあるようだった。
同学年の男子が行った家は離婚調停中で、ごたごたして落ち着かなかったと言っていた。
このように、当たり・はずれがあるのだ。
私の場合ははずれでは無かったと思う。
皆優しかったし(兄は無口であまりリビングで会わなかったが)、ご飯もちゃんと出してくれた。
私はホストファザーが好きだったのだが、彼はトラックの運転手でほとんど家に居なかった。
必然的にホリーと共に過ごすことが多くなる。
寝る部屋も彼女の部屋で、ベッドを貸してくれた。
私はホリーに日本で買った浴衣をプレゼントした。
蝶々が優雅に飛んでいる黄緑色の浴衣で、とても素敵だと思って買った。母も「きっと喜ぶね」と言っていた。
可能であれば簡単に着付けようと思ったが、ホリーの肥満体型にサイズが合わず、羽織る形になった。でもホリーはとても喜んでいた。
喜んでくれたのなら、良かった。
乱雑に脱ぎ散らかして、しわしわになった浴衣を私は黙って見ていた。
ホリーはフルートが得意なようで、私に吹いてきかせた。
何度も何度も何度も。
私は「すごい!」とか「上手!」と簡単な英語で褒め称えた。
彼女の演奏が「すごい」のか「上手」なのかは分からないが、とにかくオーバーリアクションで褒めちぎった。
彼女は演奏を止めなかった。
ぐったりしたところで夕飯の時間になった。
ホリーの家には犬と猫がいた。動物が私の孤独を癒してくれた。
犬と庭で追いかけっこしたり、寝ているとベッドの中に猫がもぐりこんできた。
長い一日がやっと終わる。
それにしても家の中が寒い。夏だというのに長袖が手放せない。
外も涼しかったが、たぶんクーラーが効いているのだと思う。
長袖を一着しか持ってこなかったことを後悔した。
隣のウォーターベッドでホリーが馬鹿でかい声で電話している。その笑い声のでかさを階下からマザーが叱る声が聞こえる。
ホリーは電話を止めない。
昔から大きい音や大きい声が苦手だった。
私はかけ布団を頭から被って耳を塞いだ。
大きな笑い声、しわしわの浴衣、マザーの「OK」、止まないフルート、ロン毛の変顔野郎、部屋の寒さ、――孤独。
涙が溢れてくる。
ホームステイ一日目にして完璧なホームシックだった。
日本に、家に帰りたい。家族に会いたい。
英語も話せない。心も開けない。
どうして私はここにいるの?
ホリーの電話が終わり、皆が寝静まり部屋は真っ暗になった。
涙目でふと天井を見上げ、「あ、」と声を出しそうになった。
天井一面が満点の星でいっぱいだった。
100均とかでよく見る蛍光シールのあれである。
ホリーが自分でこれだけの数の星を貼ったのだろうか。
悔しいが、この星空はちょっと感動した。
自分の無能さを他人のせいにしては駄目だよな、と反省した。
分かってくれよ、ではなくて、自分で相手を理解しようとしなくちゃ。
ぼんやりそんなことを思って星空を眺めているうちに、いつのまにか私は眠りについていた。
つづく
おねえちゃん
「ともちゃんには、お姉ちゃんがいるはずだったんだよ」
その言葉に、私は後頭部をぶん殴られた気がした。
ともちゃんとは私のこと。私は長女であり、下には弟がひとりいる。
「どういうこと?」
私は目の前の従姉に尋ねた。
季節は夏真っ盛りで、私たちは夏休みの日課である小学校のプールに行くために待機していた。
「本陣」と書かれた謎の石碑に座り、直射日光をなんとか避けながら、私は赤い水着袋をぎゅっと抱きしめた。
3つ離れた従姉もまだ小学生だったのだから、私は当時小学2年か3年生だったはずだ。
「ともちゃんには、お姉ちゃんがいるはずだったんだよ。でも死んじゃったんだって。流産だって。これはおばちゃんに言っちゃダメだよ。悲しむから」
従姉は呆然とする私にあっけらかんとそう告げた。
流産の意味をその時知っていたのか、教えてもらったのか、後から知ったのかは忘れてしまった。
ただ、「言ったらダメだよ、悲しむから」という言葉が耳から離れなかった。
幼い弟に言えるはずもなく、母からもそんな事実は告げられた覚えがないので、隠したいことなのだと察し、私はその言葉を自分の中に封印することにした。
私はたった8歳で、誰にも言えない大きな秘密を背負うことになった。
それから時々、私はこの世にもう存在しないお姉ちゃんを想像するようになった。 もしいたら、どんな人だったのだろう。優しいかな。怖いかな。私に似ていたらいやだな。
そんなことを思っているうちに、私は秘密を持っていることが辛くなっていった。
ある日、数人の友達につい喋ってしまった。私にはお姉ちゃんがいるはずだったんだ、と。
それがいけなかった。そのうちの一人が、私の家に遊びに来た時に母がいる前で「お姉ちゃんがいたんでしょ?」と悪気なく言ってしまったのだ。
そういえばこの子は、「図書室に飾ってあるモナリザの前で名前を呼ばれると夜に心臓をとりにくる」という怪談話を聞いた後の私に、悪気なくモナリザの前で私の名前を呼んできた子だ。
私はその時と同じ絶望を感じながら母のほうを恐る恐る見た。
泣き出したらどうしよう。
しかし母は「なぁに、それ?」と言って笑った。
私はその反応を見て、「ごまかされた」と思った。
聞かなかったことにされた、と。
そして、母は私に真実を言う気はないのだと悟った。
それから12年、もう誰にも秘密を打ち明けなかったし、母に問いただす気も起きなかった。
私は20歳になった。
精神的にも少しは大人になり、母の相談や愚痴に付き合えるようになったし、偉そうにアドバイスするようになったりしていた。深夜2時まで話し込むこともあった。
ある日、私の出産について母が話し出した。
難産で、分娩室に4日もいて苦しんだ~というよく聞かされる話だ。
しかし、その日は違った。
「あんたを産む前、胞状奇胎になっちゃってさあ、流産かと思ってすごいショックで…でも赤ちゃんになる前の段階だったからほっとしたよ~…最初に診てもらった医者がヤブでさあ…」
「ちょ、ちょ、ちょ…ちょっと待って」
私は母の話を遮り、恐る恐る訊ねた。
「私、子どもの頃に従姉に流産だって聞いて、…お姉ちゃんがいるはずだったって聞かされたんだけど、違うの?」
「お姉ちゃん?なんでそうなるの?デマだよ」
母は訳が分からなそうに首を傾げた。
訳が分からないのはこっちである。
私は12年以上も、嘘の情報に惑わされていたということになる。
なんだったのだ、この長くて憂鬱な杞憂は。
なんだか肩の荷が下りたというか、肩の力が抜けたような変な気分だった。
その日を境に、私の頭の中にお姉ちゃんは現れることはなくなった。
いつ想像してもその全容ははっきりせず、顔も性格も靄に包まれたような存在だったので、消えるのもあっという間だった。
それから数年が経ち、私は20代後半を終えようとしている。
最近母と温泉に入り、だらだら話していると、またその話になった。
「あぁ、流産だって信じて、私がお母さんを傷つけまいと一人でずっと抱え込んでた話ね。ほんと、健気じゃない?」
と、冗談まじりに言うと、「そうだったんだ?」と私の苦しみなどすっかり忘れて母は笑った。
「でも、流産だと思ったよ、最初は分からないから。子供を殺してしまったんだと思って毎日泣いた。その当時おばあちゃん(母の母)が具合悪くて先が長くないから、子どもだけは見せたかったけど、ダメだったから、本当に辛かった。」
その言葉を聞いて、私はひとりぼっちで泣いている若い頃の母を思った。
その時、私がいたら支えられたのに。その時私はまだ生まれてもいないんだから、完全に不可能なんだけど、時空を飛び越えて母のそばにいられれば良かった。
母は今でも時々、私が生まれる前に亡くなったおばあちゃんの話をする。
あんた(私)に会わせてあげたかった、とか、一緒に3人で買い物行きたかった、とか、私の横顔はおばあちゃんに似ている、とか。
「母が亡くなってもう頼れる人はどこにもいないって失意のどん底にいたときに、うちのおばあちゃん(父の母)が言ったんだよね。「困ったときは、この子の面倒はいざとなったらあたしがみてやるから、心配するな」って」
私は「おばあちゃん、格好いいね!」と感心して言った。
「うん、感謝してるから、おばあちゃんが我儘を言ってキレそうになる時に思い出すようにしてるわ」と母が言うのでつい笑ってしまった。
母には母の、私には私の秘密があって、それは本人にとってはそれなりに重くて、ひとりで抱え込むしかなかった。
人に相談するのが苦手な私たちはずっと自分の力で何とかしようとしてきたけど、それはあんまり良いことではないみたいだ。
もう隠し事をしたり、されるほど子供ではないはずだから。
ゴッサムシティの市民達
映画「ジョーカー」を観てきた。
主演のホアキン・フェニックスがリヴァー・フェニックスの弟だという事と、ジャックニコルソン版のバットマンを観たという前情報しか持たずに鑑賞した。
舞台はバットマンというヒーローが誕生する前のゴッサムシティ。貧富の差は広がり、ボイコットでゴミ収集もとりやめられ、市は汚染と貧困、暴力で溢れていた。
そこに暮らすアーサーは働けない母と二人で住んでいる。脳神経の障害で緊張やストレスが加わると笑いが止まらなくなる。仕事は道化師、ピエロである。とある事件でアーサーは職を失い、裏切りや拒絶や暴力を受け、それを引き金にアーサーは悪の道に堕ちていく。
悪のカリスマ「ジョーカー」はどうして「ジョーカー」となったのか、という話だ。彼は生まれながらのサイコパスではなかった。意味もなく人を殺したりするような人間ではなかった。献身的に母を支え、人々を笑わせようとし、恋もした。
人間は誰しも悪の芽が心に生えている。その芽を育て、悪の花を咲かせるのは自分自身、親、他人、仲間、社会である。
劇中でジョーカーは娯楽で人を殺さなかった。優しく接してくれた同僚だけは殺さなかった。彼なりの理由と道理があった。彼に暴力を振るった者達、彼を裏切った者、彼を欺き虐待した者、彼を嘲笑する者。しかし普通の人はそこで殺人は起こさない。理性や情で思いとどまる。大切な人のことが脳裏に過る。
アーサーには思いとどまらせるほどの愛や幸せ、大切な存在が無かった。だから銃の引き金を引いた。鋏を振り上げた。そして感じたことのない高揚と自信を得てしまった。
人のジョークに笑えない。人も笑わせられない。しかし病気で発作的に笑いが止まらない。悪に染まったアーサーは気付いてしまう。憎い奴らを苦しませることはどんなジョークより笑えるということに。
アーサーには悪の資質があった。そこに外的要因が働いた。
ジョーカーとなったアーサーを市民達は英雄視する。
真面目に生きているのに誰も話を聞いてくれず、病気のせいで疎外され、いない存在として扱われていた彼を。
ジョーカーとなったアーサーは正直美しく、煙草をふかす姿は煽情的で格好良かった。階段で踊る姿に鳥肌がたった。それは彼が自信をつけたことの現れだった。とても悪い方向に。
彼が自信をつけ、たとえ心から笑えるようになっても大切なものは何も手に入らない。市は腐敗し、暴力の連鎖は止まらない。
私は「そういう風に生まれてしまった・そいういう風にしか生きられない」人々を知っているし、私にもそういう部分はある。
自分の力ではどうにもできない資質とでもいうのだろうか。
その資質が厄介であればあるほど越えてはいけないラインを越えやすいのかもしれない。
前のブログにも書いたが、私は運が良かっただけだ。善良な市民として生きている私はたまたま運が良く、恵まれていただけ。ジョーカーの行動が理解できない人はとても恵まれている人だと思う。
話は変わるが、この映画の怖いところが現実と虚構が入り混じっていること。アーサーの視点で描かれていることである。
全てはアーサーの主観で善悪が決められている。そう。善悪とは主観なのである。
最後のシーンは妄想オチとかいわれているけれど、私は次の犯罪(ジョーク)が思いついたから脱走しようと逃げたのではないかと思った。
この映画の教訓は、「ジョーカーになるな」というよりは「ジョーカーを生み出した市民になるな」だと思う。
そして「その市民達を生んだ社会を作るな」という事である。これはとっても難しいことだけど。世界規模の問題だけど。
例えばアーサーのような人が職場にいたらどうする?
きつく接してしまわないか?傷つけるような言葉を発してないか?自分の無意識で何気ない言葉や態度が相手にフラストレーションを与える可能性は十分ある。
ジョーカーになるには悪の資質がいる。誰でもなれるものではない。しかしジョーカーに間接的に引き金を引かせた市民には誰でもなれる。
主演のホアキン・フェニックス。圧巻の演技だった。
笑いの発作、苦しそうに笑う演技。壮絶だった。
身体の不気味で奇妙なライン、骨ばった背中、全身から漂うオーラがすごかった。ジョーカーの生きざまに共感も称賛もないけれど、ホアキンの命を懸けた衝撃的な演技には惜しみない拍手を送りたい。
あと、幼い頃のバットマンとジョーカーが対峙していたという事実と、バットマンの両親を殺したのはジョーカーではなく、ジョーカーの仮面を被った一般市民だったという演出がなんともいえない。
繋ぐ
最近テレビで世界陸上が放送されている。
陸上と一括りにいってもその種目は様々である。
私は過去に陸上競技をテレビで見ていて号泣したことがある。
しかもかなりマイナーな競技の、「競歩」の中継で、だ。
2007年の世界陸上の競歩で、山崎勇喜選手が役員の誘導ミスにより失格になった。私は偶然それをリアルタイムで見ていた。
競歩なんて歩いているだけだから、マラソンより楽なのでは?と考える人もいるかもしれないが、それは間違いである。
競歩はかなり過酷なスポーツで、ルールが厳しく複雑だ。
「どちらかの足が必ず地面についていること」「体の真下に足が来るまで膝はまっすぐに伸ばす」これらができていないと失格になってしまう。
酷暑の中、命を削り、意識を朦朧とさせながらも選手達は足を止めない。
山崎選手は運営の誘導ミスで周回数を誤ってゴールしてしまい、途中棄権扱いとなった。それは私にとって衝撃的なシーンだった。
実況していたアナウンサーと解説者が大きな怒りの声をあげる。
「これ、誘導間違えてませんか?!」「係員がいま慌てて止めにいっていますね…あ、だめだ!何をやってるんだ」「山崎は意識朦朧としている!」「競技場に入ってしまっています!なんということだ!!ここまで命を削って歩いてきた山崎になんという…!」「3時間50分ちかく死力を尽くして歩いてきた選手に『まだ残っている』なんて言うのは無理だ!!」「これを棄権とは言いたくありません。本人の意思ではありません。記録上棄権とつくかもしれません。でもこれは棄権ではない!」
山崎選手は自分が失格になっていることすら気付かず、ゴールをして倒れこみ、6人の係員に担架で運ばれていった。
私はその衝撃の結末に呆然とし、ぼろぼろと泣いた。
何故自分がこれほど泣いているのか分からないくらい泣いた。
命を懸けた行いの結果がこれほどあっけなく散ってしまうものなのか。
今でもその映像を見ると胸が締め付けられて泣きそうになってしまう。
でもやはり、全身全霊で何かをする姿というのは美しいし、見ているほうにも胸にくるものがある。
私は陸上といえば短距離走が好きだった。小学生の頃は町の陸上教室に週一で通っていたし、100m走の大会にも出た。とくに自分の足が速いとは思わなかったけれど、走るのは好きだった。他者と争うというよりは、昨日の自分のタイムをどれだけ抜けるかが大事だったように思う。
初めて大会に出たのは小3の頃だった気がする。
何故か先生に呼ばれ、体育館に行くと同級生の男子2人と女子1人がいた。この4人でよくわからないままリレーの大会に出させられた。
結果は覚えていないが、リレーの楽しさは覚えている。
スタートのピストルが鳴ると第一走者が飛び出す。がんばれがんばれ、うわ、もうすぐ来るぞ、来た来た、飛び出す、走る、後ろ手にバトンの重みが伝わる、右手に持ちかえる、走る、走る、抜かされてはいけない、せめて今だけは、走る、バトンを次の走者の男子に渡す、パシッと良い音がする
リレーって楽しいなあと幼心に思った。あとスパイクシューズが恰好良かった。足の裏がトゲトゲしていてコンクリートの上を歩くとカツカツいって歩き辛いけど、グラウンドの土では滑り止めになって走りやすかった。
自分の歩幅〇個分を歩いて測り、スパイクの刃を使って線をひく(土じゃなくてゴムの地面だったらテープをはる)。その線を前の走者が越えたら後ろを見ずに走り出し、「はい」の声の合図で手を出しバトンをもらう。これが無駄の無い、効率の良いバトンの繋ぎ方だと先生に教えられた。自分は「選手」なんだという気がしてなんだか誇らしかった。
最近そのリレーのチームだった男子と再会したのだが、彼もこの時の小さな体験を覚えていた。彼もバトンを繋ぐ楽しさを覚えていたんだと思うと嬉しかった。
それから何度か私はリレーの大会に出たり、小学校の運動会のリレーの選手に選ばれるように頑張った。
たしか高校の体育祭でも怪我をした子に代わってリレーに出た。どんだけ好きなんだ。
私のクラスは女子しかいなかったので、普通科の男女混合に勝てるわけがないと、皆諦めモードだった。しかし女子クラスは皆気が強い。心の中では「やったろやないかい」と闘志がメラメラ燃え滾っていた。
私も「消えちゃいたいよ」と弱音を吐きつつ、せめて私の番では抜かされないようにしないとと考えていた。結果は上位に食い込む好成績で安堵した。
昔の燃え盛るような熱量と、興奮が蘇った気がした。
もう二度とスパイクシューズを履いてバトンを渡すことは無いんだなと思うと寂しい。
オリンピックのリレーも見たくて応募したが落選した。
バレーボールもそうだが、自分だけで完結するんじゃなくて、全体を巻き込んでやるスポーツが好きなのかもしれない。個々が強くてもそれがチームの強さにはつながらないところ、何が起こるか分からないところがやっていても見ていても面白いのだ。
赤い眼の男
皺ひとつないスーツを着込んだ新入社員が、うちの会社にもやってきた。職場内を見学しているのを見かけたり、「おつかれ」ではなく「じゃあね~」と別れる彼らを眩しく思ってみたりする。
私の初めての職場の上司は赤い眼をしていた。
マジで赤かった。寝不足とかの赤みではなく、白目の部分に血が流れているみたいな、痛々しい眼だった。
私のやりたい仕事は経験がものをいう業界だったので、資格を取って、まずアルバイトという形でその上司がいるオフィスで働き始めた。
そのオフィスはタクシーの運転手さえ知らないビルとビルの隙間にひっそり佇み、従業員は赤い眼の上司と、私と、週に1回くる妙齢の女性だけだった。
木製の扉や、モダンな化粧室と、オフィス自体はなかなか小洒落ており、上司も物腰が柔らかで、赤い眼と対峙してたじろいだ私は少し安心した。
その上司は昼夜逆転の生活をおくっており、あまり顔を合わさないのも良かった。そして給与も良かった。
私は自分の机とマックのパソコンをあてがわれ、初仕事にわくわくしていた。週に一度くる女性ともすぐに仲良くなった。
上司に与えられた仕事をこなし、オフィスの掃除をし、雑用もやった。
順風満帆かと思いきや、徐々に地獄の日々に塗り替えられていった。
原因は上司である。彼はだんだんと本性をあらわしていった。
昼夜逆転生活のせいか、いつもイライラしていて私に八つ当たりするし、20代前半の未熟な私を見下しているようだった。
いつも一人きりで仕事をしているからか、私というサンドバックができてから、めちゃくちゃ長い説教をたれるようになった。
説教の内容は仕事に関係あることから逸れていき、人生観や今どきの若者は~とうんぬんかんぬん…
上司は顔が田原総一朗に激似だった。
朝まで生テレビ!やるつもりかよと私はぼんやり思いつつやりすごしていた。
しかし、オフィスには私と赤い眼の田原総一朗しかいない。
逃げ場がなく、私もどんどん追い詰められていった。
上司の言っていることに全然納得できないし、上司に非があった時めちゃくちゃ責任逃れされたけど、私が悪いのかもしれない。若いから、と言われてしまえばそれまでだ。次第に私は若いことが罪のように思えてきた。
ある日、珍しく外部から取引先の人が来て、話をしていた。その人は前任の人と交代になってまだ日も浅い人で、ここに来るのは2回目なのだが、上司と怒鳴りあいの大喧嘩がおっぱじまった。
まだ2回しか会ってない人と、しかもこれから関係を続けなきゃいけない人とこんな罵り合いする!?と私は呆然として声だけ聞いていた。
週に一回くる女性社員に「あなた、よく続いているわねぇ。皆すぐに辞めてしまうのよ」と言われ、やっぱりここは異常なのだ…と思ったが、私はすぐには辞めなかった。給料が良かったし、まだ次の職場の目途が立っていなかった。そして、「ほらみろ、これだから若い奴はすぐに辞める」という赤目の田原の姿が容易に想像できたからだ。
辛かったけど、人には相談できなかった。
あの取引先のおっさんみたいに感情にまかせて反発することもできなかった。
しかしとうとう我慢できず、私は泣きながら母に電話した。
これこれこういうことを言われた。私は間違ってない。悔しい。悔しい…!
母は「うん、うん、」と私の愚痴を聞いた後、とても落ち着いた声で
「その人は病気だね」と言い放った。
「びょう…き…?」
「だって異常じゃん。心の病気だよ。可哀そうに、くらい思ってないと、お前が潰れるよ?」
それからは、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした気持ちで仕事に臨めるようになった。
「顔を合わせないからといって、地元のお土産は机に置いて書置きするんじゃなくて、直接渡しなさいよ、キミィ」とお土産のお礼も言われず長い説教が始まり、話が無事、いつもの人生論に飛んだ時も、「こいつぁ狂ってるぜ…こいつの話を聞いても時間の無駄…」と白目を剥いて立ったまま寝れる境地までいけるようになった。
上司は話に夢中で、立ったまま眠る私には気付かない。
赤目のおっさんと、白目の小娘――。
地獄絵図である。
次の職場が決まり、いざオフィスを辞めることになっても、私はとうとう上司に一度も文句が言えなかったし、捨て台詞も吐けなかった。
私の父が長年勤めた会社を定年退職する時、セレモニーで社長から花束が渡されると言っていたので、「長年社長に苦しめられたんだから、最後に花束を社長の顔面にブン投げちゃえば」と冗談で言ったのだが、「そんなことはしません。大人しく退場します。立つ鳥跡を濁さずです…」とLINEが返ってきた(父は何故か文面上だと私に敬語)。
やはり血筋なのである。
物騒な勇気は憧れるけど、私たちにはきっとできない。
跡を濁したくてもきっとできない。
それがたまに情けなく感じることもあるけど、性分だから仕方ない。
散々な新社会人時代の思い出だけど、おかげで職場に変な人がいても、赤目の田原よりはマシだと思えたし、何より田原に屈しなかったことがひとつの自信になったと思う。
新社会人の皆さん、良い意見は取り入れ、聞いて無駄な意見は白目で聞き流しましょう。
まあそれを判別するのも難しいのだけど。
とりあえず自分を追い詰めず、自分を死に追いやる前に、相手は病気だと思ったほうが精神衛生上良いでしょう。
気を付けて。
赤い眼のそいつはあなたのすぐ近くにいるかもしれない。
春の街
春だ。
桜が満開だ。
私の職場まで駅から歩いて15分ほどかかるのだが、その途中に桜並木がある。
桜の季節になるとたくさんの人で賑わっている。
夕方になるとスーツ姿の新入社員たちがぞろぞろ歩いていたり、どこかの会社の団体が宴会をひらいていたり、家族連れが写真を撮っていたりとじつに賑やかだ。
ここの桜がとても見事なので、わざわざ他の場所でお花見しようとは思わない。通勤ついでに見惚れながらひとり花見を楽しむ。
去年は夜に会社を抜け出して休憩がてら夜桜を見た。
深夜2時なのにわりと人がぽつぽつと居て驚いた。
会社帰りのスーツ姿の男女が桜も見ずにうなだれて話していたり、「オレたち、ひよったよなあ~」と言いながらキャリーケースをひきずる少年たち、夜桜を撮影しようとカメラをかまえる男、缶コーヒーを飲みながら桜を見上げるタクシー運転手。そしてサンドイッチを頬張る私。
平成の桜も令和の桜も変わらず美しい。
話は変わるがそろそろ引っ越したい。
でも今住んでいる街からは出たくない。
横浜から東京に越してから私はずーっと同じところに住んでいる。
だからこの場所しか知らない。
職場からもまあまあ遠いし、通勤快速が止まらないからいつも間違えて次の次の駅まで運ばれる。
でも、治安も良いし、お気に入りのパン屋やカフェや雑貨屋がある。
夏になるとグラウンドで夏祭りがあって、それなりに賑やかだ。
私はこの街が好きだ。
だから住居だけ変えようと思う。
引っ越しはだいぶ前から考えていたのだが、いざ荷造りしようとするとまったくやる気がおきない。
つい半年前まで、わたしのアパートの騒音問題が深刻化していた。
扉を力強く閉めたり蹴ったりする人がいて、何度注意されても直らないらしかった。
私も我慢の限界を迎えていた。ある日外出しようとしたところを後ろから呼び止められた。私の上の階に住んでいる女性だった。
彼女も住人のせいで眠れず、管理会社や警察に通報したと興奮気味に喋っていた。
「私の生活音は気にならないですか?」と恐る恐るたずねると「大丈夫よ!あなたとても静かだもの!ここに来てだいぶ経つわよね?変な人が越してくるくらいなら、あなたにずっといてもらいたいわ!」と言うので、ほっと安堵したものの、顔も合わせたことなかったのに私がここに来て長いことをどうして知っているのだろう、と少し思った。
そのすぐ後から監視カメラが設置された。
しばらく経つと騒音も無くなった。
地元を離れて10年が経とうとしている。
いまだに私は何故ここにいるのか説明できないでいる。
大きな夢も野望も無いのに、家族と離れてまでここにしがみつく理由は何なのか。
でも、なんとなく私は一人でいるべき人間なのではないかと思っている。
たまに本当に何もできない自分が嫌になる。ちゃんと大人になれない自分が。
結婚しろとか子供を産めとか言われるけど、今の自分は安易にそれをしてはいけない気がする。
他人を受け入れることができるようになったら、私の環境も変化していくような気がする。それはもう劇的に。
乞うご期待。