無垢の予兆

言葉の出枯らし

弟を階段から突き落とした話

 

何に対して爆発したのか

何歳の頃かはもう覚えていない。

保育園か小学低学年くらいの頃の出来事だと思う。

覚えているのは、スローモーションで階段を転がり落ちていく弟の姿。

押したのは姉である私だということ。

 

あの瞬間、私には悪魔が乗り移っていたと思う。

弟が無事でよかったと、大人になった今でも冷汗が出る。

私はいったい何が原因であのような凶行に走ったのか

それがまったく思い出せない。

 

 

子どもは無垢で残酷だ。

同級生の男子は平気な顔で、草刈の鎌で蛙を殺していたし、

虫を大量に踏みつぶしていた。

人間は生まれながらに嗜虐心というものがあって、子どもはそれを隠そうとしない。

 

女の子にもそれはある。

私にもあったんだと思う。弟がくしゃくしゃの顔で泣くと、可愛い、と思った。

 

今でこそ一緒にライブに行ったり、LINEを頻繁に交換したりと仲の良い姉弟であり、弟を自分の分身のように感じているが、昔は違った。

私と弟は何もかもが違いすぎた。

まずは体格。 私は身長がぐんぐん伸びた。やせっぽちではあるが、クラスメイトより頭ひとつ分出ていた。それが嫌だった。

弟は小さかった。いつも背の順で前から2番目3番目のところにいた。組体操では決まって一番上だ。

 

そして性格。私は極度の人見知り、恥ずかしがり屋、内弁慶だった。親戚が来るとモジモジして、ずっと黙ってニコニコしていた。

弟は本当にうちの血筋の子か?と疑問に思われるくらい元気っ子で、やかましかった。親戚の家の水槽に手をつっこみ、手づかみで金魚を捕まえようとする破天荒さ。「お菓子をやるから黙っていろ」と叔父さんに言われたのは語り草になっている。

 

このように、私と弟は正反対で、相性が悪かった。

私はお調子者の弟が可愛らしく思いつつも憎らしかった。

皆が弟の方だけを可愛がっているように感じた。

 

しかし、何故だか弟の方は私のことが大好きだった。

いつも私の後をついてまわったし、私のすることをマネしようとした。「もう遊んであげない」と言うとこの世の終わりかのように泣き叫んでいた。

 

忘れられない出来事が二つある。

私が母に怒られて外に裸足のまま締め出された時、幼い弟が泣きながら私の胸に飛び込んできたことがある。

「なんでこいつが泣いているんだ?」と思っていると、母が「アンタが外に出されて可哀そうだってさ」と言ってあきれたように微笑んだ。 私は弟が何故そこまで私のことを思うのか不思議で仕方なかったけれど、涙が溢れて止まらなかった。

私と弟は抱き合いながらおいおい泣いた。

 

あと、私が二階の部屋の小窓から興味本位で屋根の瓦に登ってみようと足をかけた時、後ろで泣き叫ぶ声がして、驚いて振り向くと弟が泣きながら怒っていた。「あぶないから登っちゃだめ!!」と地団駄を踏んでいる。

「大丈夫だよ、ちょっとくらい」と言っても泣き叫ぶので、苦笑しながら「わかったよ」と諦めたのを覚えている。

 

私は保育園のスモック姿の弟が大好きだった。

ふわふわで柔らかくていい匂いがして、いつもぎゅっと抱きしめていた。

くるくるの栗色の天然パーマも、つり目も、小さい手も大好きだった。

 

こんなに愛しい記憶も残っているのに、四六時中ふたりでいると優しい出来事ばかりではいられない。

昔のホームビデオが今でもDVDで残っているのだが、ひな祭りの日に私が不貞腐れて泣いていて、母は怒っていて、おばあちゃんが慰めている。

父は「泣いてる!泣いてるぞ!」とはやし立てながらビデオを回している(最低)。弟は父のマネをしながら「お姉つぁん(ちゃん)、ないてるないてる!」とおどけている。

お前、そういうことしてるから私にいじめられるんだぞ。

 

しかもどうやら私が泣いている理由が、ひな祭りは私のお祝いなのに、弟の独壇場になってしまったことが関係しているらしいのだ。

画面が切り替わり、弟がおちゃらけて、たどたどしくひな祭りの歌を熱唱している。皆が、上手だねぇ、と拍手している。

苦々しげに涙目で弟を睨む幼き日の私。

 



理由は分からない。何かが引き金となった。

気付くと私は弟を階段から突き落としていた。

 

私は「なんて恐ろしいことをしてしまったんだろう」と、ずっと後悔していた。生きていたのは奇跡だ。幼い頃の事とはいえ、もしもあのまま弟が死んでしまっていたら私は今こうして呑気に暮らしていられない。

 

今では弟の背も伸び、私を抜かしてしまった。

性格も落ち着き、ちょっとは天真爛漫だった昔を思い出せよ、と残念に思うくらい穏やかになった。

あれだけあべこべだった姉弟は似たもの同士になった。

話も合うし、趣味も笑いのつぼまでそっくりになった。

 

成人になってから「お前は忘れてるだろうけど、家の階段から突き落としたことがあるんだよね。スローモーションで落ちていってさ…」と言うと弟は「俺も覚えてるよ。俺もスローモーションで落ちてるなあと思ってたよ」と笑いながら言った。「ほんとに姉ちゃんはひどいよね」

 

 

この出来事を他人に話すと、当たり前だがドン引きされる。私自身だって過去の自分にドン引いている。

母は「はぁ!?そんなことしたの!?覚えてない!」と叫んでいたが、落ちて泣いてる弟を焦りながら抱える母の姿を覚えているから、まさか私が犯人だと思わなかったのだろう。

父は「ひでぇーーー!(笑)」と言っていた。

 

「キョウダイ」というものは他人には理解しがたい、唯一無二の存在だ。

大切であり、憎らしくもある。

かつての私の凶行を笑って赦してくれる弟に感謝しかないし、これからも仲良くして頂きたい所存である。