無垢の予兆

言葉の出枯らし

異国の星

 

私の生まれた町はとても小さな町だ。

 

両隣を大きな市に挟まれ、いつ吸収されてもおかしくない。

工業の町として知られており、他にはネズミの形をした大根や、薔薇などがちょっと有名で、そのおかげかは分からないがなんとか合併することなく今日まできている。

 

私が14歳の頃まで、姉妹都市であるアメリカ、オレゴン州ポートランドでのホームステイ制度があった。希望者は簡単な試験を受け、受かった者は1週間ほどではあるがポートランドに行ける。

少し補助金も出た。

 

私は友達の誘いでなんとなく志願してみた。

その頃私は思春期の真っ只中で、「自分を変えるキャンペーン」を勝手に自分の中で行っていた。

 

部活を頑張ってみたり、好きな人に思いを伝えたり、不器用さを直す為に浴衣を縫って作ってみたり。

 

漠然とした将来への不安がいつも頭の隅に付きまとい、とりあえず今のままでは駄目だと思っていた。

人付き合いも下手だし、得意なこともない。

自分の首を絞めている相手は誰でもない自分だった。

自分の性格に息が詰まりそうだった。

 

事態が劇的に変わるとは思わなかったが、何か突破口が欲しかったのだと思う。

 

私は海外に行ったことが無かった。ただでさえ人見知りが激しいのに、見ず知らずの家庭でお世話になるなど、しかも相手は異国の人達である。

今考えると、当時の私は随分思い切ったなァと思う。

母も驚いていた。でもすぐ嬉しそうな顔をして「すごいじゃん、行ってきなよ!」と送り出してくれた。お金を出させることに申し訳ない気持ちがずっとあったので少し安堵した。

 

不安で気もそぞろな出発当日、祖母に電話した。「私も見送りに行く」というので「いいよ、来なくても」と何気なく言うと、祖母は突然電話口で泣き出した。びっくりして言葉を失った。今まで泣いているところを見たことがなかったから。

それだけ私のことが心配だったのだと思う。慌てて謝ったが、心残りは消えず、後悔を連れ立って日本を離れることになった。

 

ホームステイする生徒は同学年の10名で、引率の先生が一人ついた。

英語担当の女性の先生で、中学で数少ない好きな先生だった。

先生はビデオカメラで私たちの様子を撮ってくれていた。

そのDVDは今でも私の宝物だ。

 

初めて飛行機に乗り、友達とわいわい話しているうちにだんだん楽しみになってきた。

 

空港に到着すると各ホストファミリーが待ち構えていた。手には名前の書かれたボードを持っている。

ここで友達や先生ともしばしお別れだ。私は必死で自分の名前を探した。

事前の情報では私がお世話になる家族は4人家族で、父、母、息子(兄)、娘(妹)の構成だった。妹の方は私より一つ年齢が上とのことだった。

私の名前のボードを持った二人は父と娘だった。歓迎の言葉やハグがあった気がするが忘れてしまった。

とても明るい人たちで安心したことは覚えている。

時差ボケか気の緩みか、車の中で死んだように眠ってしまった。

 

ふと目が覚めて隣の女の子(名前はホリーといった)を見た。

ホリーは想像していた女の子とはかなり異なっていたというか、正直言って15歳には見えない風格だった。巨体で、よく笑い、私の周りにはいないタイプだった。

 

窓の外を見ると車が並走していた。

後部座席の長髪の男がこちらを見てめちゃくちゃ変な顔をしている。

薬でもキメているのか、アジアの女の子を見てからかっているのか。私は後者だと思い、目を逸らした。

ホリーも父も気付いていないのか何も言わなかった。

 

途中で仕事終わりのホストマザーと合流した。彼女も明るい人だった。言葉はよく分からないけど「YES」と「OK」でなんとか乗り切った。

このホームステイで分かったのは、共通言語は「笑顔」であること。

笑顔でいればなんとなくごまかせるし、自然に事は運ぶ。

 

と、思いたかったがそう甘くはなかった。

「この子、さっきからOKばかりで意思疎通できないわ」

と思ったのだろうか。マザーが私の電子辞書に単語を打った。

その単語は脈絡が無い単語で、それだけでは彼女が言わんとしていることが分からなかった。

「???」状態の私をみたマザーは諦めたのか、「OK」と言って微笑んだ。

 

私はそのOKに深く傷ついた。自分の語学力の無さで相手を落胆させたのだ。恥ずかしかった。能天気な私はほとんど英語の勉強をしてこなかった。

 

ここに来るまで、なんとなくホストファミリーは少し日本語が話せるのではないかと思っていた。そして英語を教えてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。

例えば日本でアメリカ人をホームステイで迎えるのであれば、英語は少しでも勉強するはずだし、英語で接待するはずだ。日本語も教えようとするだろう。

 

私はお客様気分だったのだ。

しかし現実は違った。たった1年間の英語学習の上澄みだけ掬ったところで何も身にはならないのだ。

 

渡米する前に耳に挟んだ情報を今になって思い出した。

ホームステイを受け入れる家庭にはお金が入ることである。

なので過去には行った先がかなり貧しい家で、ほとんど満足なご飯が出なかったという体験談もあるようだった。

同学年の男子が行った家は離婚調停中で、ごたごたして落ち着かなかったと言っていた。

このように、当たり・はずれがあるのだ。

 

私の場合ははずれでは無かったと思う。

皆優しかったし(兄は無口であまりリビングで会わなかったが)、ご飯もちゃんと出してくれた。

 

私はホストファザーが好きだったのだが、彼はトラックの運転手でほとんど家に居なかった。

必然的にホリーと共に過ごすことが多くなる。

寝る部屋も彼女の部屋で、ベッドを貸してくれた。

 

私はホリーに日本で買った浴衣をプレゼントした。

蝶々が優雅に飛んでいる黄緑色の浴衣で、とても素敵だと思って買った。母も「きっと喜ぶね」と言っていた。

可能であれば簡単に着付けようと思ったが、ホリーの肥満体型にサイズが合わず、羽織る形になった。でもホリーはとても喜んでいた。

喜んでくれたのなら、良かった。

乱雑に脱ぎ散らかして、しわしわになった浴衣を私は黙って見ていた。

 

ホリーはフルートが得意なようで、私に吹いてきかせた。

何度も何度も何度も。

私は「すごい!」とか「上手!」と簡単な英語で褒め称えた。

彼女の演奏が「すごい」のか「上手」なのかは分からないが、とにかくオーバーリアクションで褒めちぎった。

彼女は演奏を止めなかった。

ぐったりしたところで夕飯の時間になった。

 

ホリーの家には犬と猫がいた。動物が私の孤独を癒してくれた。

犬と庭で追いかけっこしたり、寝ているとベッドの中に猫がもぐりこんできた。

 

長い一日がやっと終わる。

それにしても家の中が寒い。夏だというのに長袖が手放せない。

外も涼しかったが、たぶんクーラーが効いているのだと思う。

長袖を一着しか持ってこなかったことを後悔した。

隣のウォーターベッドでホリーが馬鹿でかい声で電話している。その笑い声のでかさを階下からマザーが叱る声が聞こえる。

ホリーは電話を止めない。

昔から大きい音や大きい声が苦手だった。

私はかけ布団を頭から被って耳を塞いだ。

 

 

大きな笑い声、しわしわの浴衣、マザーの「OK」、止まないフルート、ロン毛の変顔野郎、部屋の寒さ、――孤独。

 

涙が溢れてくる。

ホームステイ一日目にして完璧なホームシックだった。

日本に、家に帰りたい。家族に会いたい。

英語も話せない。心も開けない。

どうして私はここにいるの? 

 

ホリーの電話が終わり、皆が寝静まり部屋は真っ暗になった。

 

涙目でふと天井を見上げ、「あ、」と声を出しそうになった。

天井一面が満点の星でいっぱいだった。

100均とかでよく見る蛍光シールのあれである。

ホリーが自分でこれだけの数の星を貼ったのだろうか。

悔しいが、この星空はちょっと感動した。

 

自分の無能さを他人のせいにしては駄目だよな、と反省した。

分かってくれよ、ではなくて、自分で相手を理解しようとしなくちゃ。

 

ぼんやりそんなことを思って星空を眺めているうちに、いつのまにか私は眠りについていた。

 

 

つづく