無垢の予兆

言葉の出枯らし

赤い眼の男

 

皺ひとつないスーツを着込んだ新入社員が、うちの会社にもやってきた。職場内を見学しているのを見かけたり、「おつかれ」ではなく「じゃあね~」と別れる彼らを眩しく思ってみたりする。

 

 

私の初めての職場の上司は赤い眼をしていた。

 

マジで赤かった。寝不足とかの赤みではなく、白目の部分に血が流れているみたいな、痛々しい眼だった。

私のやりたい仕事は経験がものをいう業界だったので、資格を取って、まずアルバイトという形でその上司がいるオフィスで働き始めた。

 

そのオフィスはタクシーの運転手さえ知らないビルとビルの隙間にひっそり佇み、従業員は赤い眼の上司と、私と、週に1回くる妙齢の女性だけだった。

木製の扉や、モダンな化粧室と、オフィス自体はなかなか小洒落ており、上司も物腰が柔らかで、赤い眼と対峙してたじろいだ私は少し安心した。

その上司は昼夜逆転の生活をおくっており、あまり顔を合わさないのも良かった。そして給与も良かった。

 

私は自分の机とマックのパソコンをあてがわれ、初仕事にわくわくしていた。週に一度くる女性ともすぐに仲良くなった。

上司に与えられた仕事をこなし、オフィスの掃除をし、雑用もやった。

 

順風満帆かと思いきや、徐々に地獄の日々に塗り替えられていった。

原因は上司である。彼はだんだんと本性をあらわしていった。

昼夜逆転生活のせいか、いつもイライラしていて私に八つ当たりするし、20代前半の未熟な私を見下しているようだった。

いつも一人きりで仕事をしているからか、私というサンドバックができてから、めちゃくちゃ長い説教をたれるようになった。

 

説教の内容は仕事に関係あることから逸れていき、人生観や今どきの若者は~とうんぬんかんぬん…

上司は顔が田原総一朗に激似だった。

朝まで生テレビ!やるつもりかよと私はぼんやり思いつつやりすごしていた。

 

 

しかし、オフィスには私と赤い眼の田原総一朗しかいない。

逃げ場がなく、私もどんどん追い詰められていった。

上司の言っていることに全然納得できないし、上司に非があった時めちゃくちゃ責任逃れされたけど、私が悪いのかもしれない。若いから、と言われてしまえばそれまでだ。次第に私は若いことが罪のように思えてきた。

 

ある日、珍しく外部から取引先の人が来て、話をしていた。その人は前任の人と交代になってまだ日も浅い人で、ここに来るのは2回目なのだが、上司と怒鳴りあいの大喧嘩がおっぱじまった。

まだ2回しか会ってない人と、しかもこれから関係を続けなきゃいけない人とこんな罵り合いする!?と私は呆然として声だけ聞いていた。

 

週に一回くる女性社員に「あなた、よく続いているわねぇ。皆すぐに辞めてしまうのよ」と言われ、やっぱりここは異常なのだ…と思ったが、私はすぐには辞めなかった。給料が良かったし、まだ次の職場の目途が立っていなかった。そして、「ほらみろ、これだから若い奴はすぐに辞める」という赤目の田原の姿が容易に想像できたからだ。

 

 

辛かったけど、人には相談できなかった。

あの取引先のおっさんみたいに感情にまかせて反発することもできなかった。

 

しかしとうとう我慢できず、私は泣きながら母に電話した。

これこれこういうことを言われた。私は間違ってない。悔しい。悔しい…!

母は「うん、うん、」と私の愚痴を聞いた後、とても落ち着いた声で

「その人は病気だね」と言い放った。

「びょう…き…?」

「だって異常じゃん。心の病気だよ。可哀そうに、くらい思ってないと、お前が潰れるよ?」

 

それからは、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした気持ちで仕事に臨めるようになった。

 

「顔を合わせないからといって、地元のお土産は机に置いて書置きするんじゃなくて、直接渡しなさいよ、キミィ」とお土産のお礼も言われず長い説教が始まり、話が無事、いつもの人生論に飛んだ時も、「こいつぁ狂ってるぜ…こいつの話を聞いても時間の無駄…」と白目を剥いて立ったまま寝れる境地までいけるようになった。

 

上司は話に夢中で、立ったまま眠る私には気付かない。

赤目のおっさんと、白目の小娘――。

地獄絵図である。

 

 

次の職場が決まり、いざオフィスを辞めることになっても、私はとうとう上司に一度も文句が言えなかったし、捨て台詞も吐けなかった。

 

私の父が長年勤めた会社を定年退職する時、セレモニーで社長から花束が渡されると言っていたので、「長年社長に苦しめられたんだから、最後に花束を社長の顔面にブン投げちゃえば」と冗談で言ったのだが、「そんなことはしません。大人しく退場します。立つ鳥跡を濁さずです…」とLINEが返ってきた(父は何故か文面上だと私に敬語)。

やはり血筋なのである。

物騒な勇気は憧れるけど、私たちにはきっとできない。

跡を濁したくてもきっとできない。

それがたまに情けなく感じることもあるけど、性分だから仕方ない。

 

 

散々な新社会人時代の思い出だけど、おかげで職場に変な人がいても、赤目の田原よりはマシだと思えたし、何より田原に屈しなかったことがひとつの自信になったと思う。

 

新社会人の皆さん、良い意見は取り入れ、聞いて無駄な意見は白目で聞き流しましょう。

まあそれを判別するのも難しいのだけど。

とりあえず自分を追い詰めず、自分を死に追いやる前に、相手は病気だと思ったほうが精神衛生上良いでしょう。

 

気を付けて。

赤い眼のそいつはあなたのすぐ近くにいるかもしれない。