無垢の予兆

言葉の出枯らし

祈りと救済

 

あれはたしか祖父の法事でのことだろうか。

私はまだ小学生だった。

その時のお坊さんの説法をいまだにしっかり覚えている。二つの話をしてくださった。

 

ある日お坊さんは読経をしに、とあるお宅を訪ねた。赤ちゃんのいる家で、母親が忙しなくご飯を作っていた。お坊さんが仏壇に向かって経を読んでいると、しゃもじが床に落ちていることに気が付いた。しゃもじは赤ちゃんのお漏らししたおしっこに浸っていた。母親は気付かずにそのしゃもじを拾い、ご飯をよそいはじめた。そして「良かったらご飯を食べて行ってくださいな」と言った。お坊さんはおしっこに浸かったしゃもじを思い出し、丁重に断り家をあとにした。そのすぐ後に母親と再会し、おにぎりを貰った。「美味しいおにぎりだ」と褒め、お礼を言うと昨日彼が食べなかった米で握ったものだと言われ愕然としたという。

 

食べ物を無下にしてはいけない。廻り回って自分のところに必ず返ってくる、という話で、私も親戚も笑って聞いていた。

 

二つ目は命の話。

日本では人は死ぬと火葬される。故人は煙となり空へ昇り、雲に吸収され、雨になって地に降る。そして木や草花の養分となり、また次の命を生かす。命も廻り回って返ってくる。

 

 

昔は、仏様や神様を信じていた。仏壇を前にすると緊張した。何か悪いことを考えたりしたら天から見透かされて、罰を与えられると信じていた。

 

大人になるにつれてそういった恐れ敬う気持ちが薄れていったが、先祖を大切に思う気持ちはいまだにある。実家に帰ると必ず仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏を十回唱え「おじいちゃん、ただいま」と挨拶するし、東京に帰るときは「帰りますね。事故がありませんように」と手を合わせる。

 

これは良い子ぶっているわけではなくて、子供の頃からの“習慣”だ。

ご飯と水は毎日供え、お盆には提灯を掲げてみんなで迎え盆、送り盆をする。 別にうちは熱心な仏教徒ではないが、当たり前の習慣として続けている。

 

山中湖に一緒に行った友人Aとなぜか宗教の話になって、その話をするとAは驚いていた。

Aの家はお父さんが特に信仰心が薄いらしく、Aも同じく「墓の前で祈る」概念が無いらしい。「墓」には骨があるだけで、魂はもうそこにはない。祈っても意味が無いということらしい。

まさに「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」状態である。 

Aは「私が死んでもお墓に来ないでほしいんだよね。だってそこに私はいないし。うちのお父さんも、遺骨はどーにでもしろ、海にでも捨てろって言ってるし」と言っていた。ほんとに彼女は異文化だ。

 

このように、ひとえに仏教と言っても各家庭で様々な習慣や考え方があるのだ。

「まあ、祈るっていうのは死んだ人の為というより、残された人たちの為にあるのかもしれないよね。心の拠り所として」と私は言った。

「たしかにそうかもね。でももし自分が死んで、皆に祈られても、どうしようもないから好きにしてくれって思う。」とAが言うので、私は笑って同感した。

 

 この話をした数日後にオウムの教祖や幹部たちの死刑が執行された。

地下鉄サリン事件の当時、私はまだ幼くて、よく事態を把握していなかった。おかしな紫色の服を着たおじさんが、妙に耳に残る変な歌をうたっている、という認識だ。

新興宗教にハマる心理を私はまったく理解できない。

と、そう思っていた。でも最近なんとなく分かってきた気がする。

SNSの無い時代、「こんなに辛い思いをしているのは自分だけ」と思い込んで行き詰ってしまった人々にとって宗教は救済だった。狭いコミュニティの中で居場所を見出し、ここから抜け出したら終わりだと思い込む。

教祖の言葉だけが真実だと思い込む。

 

救いを求めたり、盲目的になることは誰しもある。学生の頃、心酔していたバンドの歌詞やボーカルの言葉のすべてが私の救済だった。

バンドやアイドルのファン、スポーツチームのサポーター、宗教の信者

誰しも深みにはまり得る。

 

だから私は必ずしも信者は悪だとは思えない。

騙されるほうが悪いとは思えない。

私にしかその歌が響かないように、彼らにしか分からない共鳴がある。

 

 私が昔心酔していたバンドの曲は、今でも変わらず聴いている。

あの頃の燃え盛るような熱量はさすがに減ったけれど。

歌詞や言葉がたとえ綺麗ごとだとしても、心が折れそうな時に結局救われるのは綺麗ごとなのだ。