無垢の予兆

言葉の出枯らし

ゴッサムシティの市民達

 

映画「ジョーカー」を観てきた。

主演のホアキン・フェニックスリヴァー・フェニックスの弟だという事と、ジャックニコルソン版のバットマンを観たという前情報しか持たずに鑑賞した。

 

舞台はバットマンというヒーローが誕生する前のゴッサムシティ。貧富の差は広がり、ボイコットでゴミ収集もとりやめられ、市は汚染と貧困、暴力で溢れていた。

そこに暮らすアーサーは働けない母と二人で住んでいる。脳神経の障害で緊張やストレスが加わると笑いが止まらなくなる。仕事は道化師、ピエロである。とある事件でアーサーは職を失い、裏切りや拒絶や暴力を受け、それを引き金にアーサーは悪の道に堕ちていく。

 

悪のカリスマ「ジョーカー」はどうして「ジョーカー」となったのか、という話だ。彼は生まれながらのサイコパスではなかった。意味もなく人を殺したりするような人間ではなかった。献身的に母を支え、人々を笑わせようとし、恋もした。

人間は誰しも悪の芽が心に生えている。その芽を育て、悪の花を咲かせるのは自分自身、親、他人、仲間、社会である。

 

劇中でジョーカーは娯楽で人を殺さなかった。優しく接してくれた同僚だけは殺さなかった。彼なりの理由と道理があった。彼に暴力を振るった者達、彼を裏切った者、彼を欺き虐待した者、彼を嘲笑する者。しかし普通の人はそこで殺人は起こさない。理性や情で思いとどまる。大切な人のことが脳裏に過る。

アーサーには思いとどまらせるほどの愛や幸せ、大切な存在が無かった。だから銃の引き金を引いた。鋏を振り上げた。そして感じたことのない高揚と自信を得てしまった。

人のジョークに笑えない。人も笑わせられない。しかし病気で発作的に笑いが止まらない。悪に染まったアーサーは気付いてしまう。憎い奴らを苦しませることはどんなジョークより笑えるということに。

 

アーサーには悪の資質があった。そこに外的要因が働いた。

ジョーカーとなったアーサーを市民達は英雄視する。

真面目に生きているのに誰も話を聞いてくれず、病気のせいで疎外され、いない存在として扱われていた彼を。

ジョーカーとなったアーサーは正直美しく、煙草をふかす姿は煽情的で格好良かった。階段で踊る姿に鳥肌がたった。それは彼が自信をつけたことの現れだった。とても悪い方向に。

彼が自信をつけ、たとえ心から笑えるようになっても大切なものは何も手に入らない。市は腐敗し、暴力の連鎖は止まらない。

 

私は「そういう風に生まれてしまった・そいういう風にしか生きられない」人々を知っているし、私にもそういう部分はある。

自分の力ではどうにもできない資質とでもいうのだろうか。

その資質が厄介であればあるほど越えてはいけないラインを越えやすいのかもしれない。

前のブログにも書いたが、私は運が良かっただけだ。善良な市民として生きている私はたまたま運が良く、恵まれていただけ。ジョーカーの行動が理解できない人はとても恵まれている人だと思う。

 

話は変わるが、この映画の怖いところが現実と虚構が入り混じっていること。アーサーの視点で描かれていることである。

全てはアーサーの主観で善悪が決められている。そう。善悪とは主観なのである。

最後のシーンは妄想オチとかいわれているけれど、私は次の犯罪(ジョーク)が思いついたから脱走しようと逃げたのではないかと思った。

 

この映画の教訓は、「ジョーカーになるな」というよりは「ジョーカーを生み出した市民になるな」だと思う。

そして「その市民達を生んだ社会を作るな」という事である。これはとっても難しいことだけど。世界規模の問題だけど。

 

例えばアーサーのような人が職場にいたらどうする?

きつく接してしまわないか?傷つけるような言葉を発してないか?自分の無意識で何気ない言葉や態度が相手にフラストレーションを与える可能性は十分ある。

ジョーカーになるには悪の資質がいる。誰でもなれるものではない。しかしジョーカーに間接的に引き金を引かせた市民には誰でもなれる。

 

主演のホアキン・フェニックス。圧巻の演技だった。

笑いの発作、苦しそうに笑う演技。壮絶だった。

身体の不気味で奇妙なライン、骨ばった背中、全身から漂うオーラがすごかった。ジョーカーの生きざまに共感も称賛もないけれど、ホアキンの命を懸けた衝撃的な演技には惜しみない拍手を送りたい。

 

あと、幼い頃のバットマンとジョーカーが対峙していたという事実と、バットマンの両親を殺したのはジョーカーではなく、ジョーカーの仮面を被った一般市民だったという演出がなんともいえない。